2019年10月12日

秋の北海道&東北カブ旅行(前半)


 9月12日から28日にかけて、北海道と東北をカブで旅行してきました。茨城の大洗からフェリーで苫小牧へ渡り、道南と東北を南下して帰ってきた感じです。メインの目的は続100名城巡りですが、それ以外にもいろいろ見てきましたのでご報告を。

 私は4年前にも同じような旅行をしたのですが、その時に北海道のせたな町にある日本一危険な神社こと「太田山神社」に参拝しようとして断念しました。今回再挑戦し、なんとか本殿まで到達することに成功しました。


7mの岩壁を上った岩窟に鎮座する太田山神社本殿

 その様子をデイリーポータルZの記事として書きましたので、詳しくはそちらをご覧ください。→「日本一危険な神社に参拝した!〜太田山神社リベンジ

 他にも北海道では空知の「赤平炭鉱」や「夕張炭鉱」を見てきました。特に赤平炭鉱は竪坑施設がそのままに保存されており、一日二回のガイドツアーで見学することができます。これがとにかくインダストリアルで素晴らしかった。これもデイリー向けだと思うので、近いうち記事にしたいです。


聳える竪坑とトロッコレールがたまらない

 また縄文遺跡も積極的に周りました。縄文後期の「キウス周堤墓群」は初めての訪問でしたが、ドーナツ状に巡らされた周堤は迫力満点。ただ、遺跡の中心部を国道が貫いており、遺構も破壊されているのが気になりました。


巨大な周堤を持つ墓域であるが、一部は車道が貫通してしまっている

 縄文遺跡といえば南茅部にも多いのですが、その道の駅に併設されている縄文文化交流センターにも立ち寄りました。交流センターとか分かりにくい名前ですが、ここは立派な博物館で、国宝の中空土偶を見ることができます。


東博の新指定文化財展以来、久しぶりに再会した中空土偶くん

 10月からは長野に行くとのことで、ちょうど良いタイミングで見ることができました。ちなみに貸し出されている時はレプリカが展示されているそうです。

 今回の道南旅行は和人による蝦夷地入植の歴史を知る旅行でもありました。室町時代の享徳3年(1454年)に蝦夷地に渡った安東政季とその配下の武将が築いた道南十二館のうち、現存しており史跡に指定されている花沢館、大館、茂別館、志苔館の四城に立ち寄ることもできました(うち大館は登城路が分からなかったので遠望のみ)。


そのうち志苔館は続100名城に選ばれています

 長禄元年(1457年)にはアイヌが一斉蜂起したコシャマインの戦いが勃発。道南十二館のうち茂別館と花沢館を除く10の城が陥落して多くの和人が討ち取られたものの、花沢館にいた蠣崎(武田)信広の活躍によって撃退。その功績から信広は道南の支配者となります。


蠣崎信広が寛正3年(1462年)に築いた勝山館も続100名城

 後に蠣崎氏は松前へと拠点を移して松前氏となり、江戸時代には松前藩主として蝦夷地におけるアイヌとの交易を支配していました。

 また江戸幕府は仏教によるアイヌの教化政策も執っており、江戸時代後期の文化元年(1804年)には有珠の善光寺、様似の等樹院、厚岸の国泰寺を官寺に定め、仏教の浸透に努めました。


北海道では珍しい茅葺屋根の善光寺は国の史跡に指定されている

 幕末の嘉永7年(1854年)に日米和親条約が締結され、箱館が開港されると幕府は松前藩のみならず東北の諸藩に北方警備を命じます。そのうち南部藩が築いた三箇所の陣屋「モロラン陣屋跡」「ヲシャマンベ陣屋跡」「砂原陣屋跡」が国の史跡に指定されており、すべて周ることができました。


いずれも掘と土塁に囲まれた中に建物が並んでいた

 また松前藩も箱館の近くに日本初の西洋式城郭である戸切地陣屋を築いています。西洋式城郭といえば五稜郭が有名ですが、それよりも戸切地陣屋の方が早く築かれているんですよね。


想像よりも大規模で散策のし甲斐があった戸切地陣屋跡

 という感じで道南をざっくり周り、山間のキャンプ場だと朝の気温が一桁とかなり寒くなってきたので箱館からフェリーで青森へと渡りました。まずは続100名城に選ばれている青森市郊外の浪岡城へ。


中世に北畠氏が築いた平城で、二重掘が特徴的だ

 浪岡城の後は近くの史跡を巡りつつ津軽半島を北上。太宰治の生家である金木の斜陽館を訪れました。太宰の父親は大庄屋かつ貴族議員であり、とても個人宅とは思えない豪華すぎる造りで重要文化財に指定されています。戦前の日本において文学や芸術に興じれたのは、やっぱり金持ちの子弟ですよなぁ。


斜陽館は修学旅行の学生でごった返していました

 他にも津軽半島の史跡をいろいろ見てきました。旧石器時代から縄文時代草創期の遺物が発見された大平山元遺跡はまだ未整備。将来的には遺跡内の家を立ち退かせて史跡公園として整備するようです。


近くには出土品が展示している施設もあるが、朝早すぎて開いてなかった

 また有名な遮光器土偶が出土したことで知られる亀ヶ岡遺跡には4年ぶりに寄りましたが、史跡内の家屋がことごとく無くなっていて軽く衝撃を受けました。路肩には古い石仏が鎮座している歴史ある集落で、カッコ良い古民家もあったのですが……。


昔ながらの集落がまるごと消えたことに、割とショックを受けた

 ここを含め、今回私が訪れた縄文遺跡の多くは「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に推薦されることが決まっており、それに伴い各遺跡は史跡公園としての整備を急いでいるのだと思いますが……史跡整備のためなら昔からあるコミュニティを破壊しても良いものなのか。結局どの遺跡も同じような整備が行われ、どこも似たり寄ったりになってしまうのではないか。ちょっと考えさせられました。

 長くなるのでとりあえずはここまで。後半はまた後日に更新します。

posted by きむら at 16:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2019年09月10日

夏の18切符で続100名城巡り


 夏の青春18切符を利用して、関東から東海にかけての続100城を周ってきました。ちょっと長くなりますが、今回の18切符で訪れた城の報告です。

 まず1日目は千葉県。外房線といすみ鉄道を乗り継いで大多喜城に行きました。徳川四天王のひとり、蜻蛉切りで有名な本田忠勝の城です。ちなみに大原駅から大多喜駅への往復は、通常の切符よりも1000円の日フリー乗車券の方が少しおトク。


大多喜城の本丸跡には模擬天守の博物館が建っている

 他にも本丸には土塁が現存しており、その周囲には堀の一部が残っていたりもします。また二の丸には巨大な大井戸や御殿の薬井門が現存してるのですが、現在は高校の敷地になっているので、ちょっと入るのにためらいました。どうやら多少はお目こぼししてくれるらしく、高校生も観光客に慣れているのか挨拶してくれました。


その名の通り、日本一の大きさを誇るという「大井戸」


二の丸御殿の裏門だったという「薬医門」は校舎入口のすぐ側に

 大多喜城を見た後は城下町を少し散策しました。昔ながらの町並み……と言えるほど残っているわけではありませんが、ぽつぽつと古い町家があり、重要文化財や国登録の有形文化財になっています。

 大多喜からは千葉へと戻り、成田線に乗り換えて酒々井の本佐倉城に行きました。千葉氏が築いた広大な中世城郭です。


本佐倉城は水田の中にたたずむ丘陵を丸ごと使って築かれている

 駐車場にパンフレットがあったので、そのコースに従い城跡をぐるりと一周。土塁や堀、深い切通しなどが残っています。夏草がかなり茂っていましたが、コースに沿って部分的に刈ってくれているおかげで歩きやすかったです。


北西側にある虎口の跡


主郭より東山虎口の土塁から見る景色が印象的だった

 2日目は福島県の三春町にある三春城。東北本線で郡山駅までいき、そこから磐越東線で三春駅へ。駅から徒歩約30分で三春町の中心市街地に到着。緩やかな山並みに囲まれたコンパクトな町ですが、江戸時代は三春藩の城下町。明治における自由民権運動の発祥の地でもあります。


三春城の麓に広がる小学校には藩講所の表門であった「明徳門」が


現在は公園になっている二の丸跡には曲輪が連なっている


本丸の大門跡には礎石も残る

 三春城は想像していたよりも曲輪が良く残っており、なかなか散策のし甲斐があります。本丸には近世の石垣が部分的に残っており、また東側の番所跡の近くには中世の石垣もある……とのことですが、これがなかなか見つからない。それもそのはず、石垣の表面は夏草に覆われており、大変見づらい状態でした(でもなんとか見付けられた)。

 3日目は埼玉県行田市、後北条氏の家臣であった成田氏の居城である忍城(おしじょう)を見に行きました。JR行田駅からは少し距離があるので、駅前の観光案内所で無料のレンタサイクルを借りての登城。


秀吉の小田原征伐の際、石田三成が水攻めにした忍城

 水攻めを用いても忍城を攻略できなかったことから戦下手の烙印を押された石田三成ですが、水攻めの作戦立案は秀吉で三成はそれを実行したに過ぎないという説もあります。それが正しいのであれば、まぁ、中間管理職の悲哀という感じでしょうか。

 かつては周囲に沼地が広がっていたとのことですが、現在は水城公園以外はすべて埋め立てられており、かつての様相を偲ぶものは少ないです。むしろ城下町の方が見るものが多く、足袋蔵やノコギリ屋根の縫製工場など、江戸時代から近世にかけて栄えた足袋の生産を物語る建築が残っています。


さきたま古墳群にも立ち寄りました

 巨大な前方後円墳が残るさきたま古墳群は、前から行きたかった国指定の史跡。……が、月曜だったので博物館がやっておらず、国宝の稲荷山古墳出土鉄剣を見ることはできませんでした。残念。

 写真の丸墓山古墳は石田三成が忍城攻めの際に本陣とした場所とのこと。登ってみると確かに眺めが良く、忍城が一望のもとでした。


最後は「石田堤」を見てから帰りました

 石田三成は水攻めのために28kmにも及ぶ土塁を僅か一週間で築き、利根川や荒川の水を引き込んだといいます。しかし地形の都合上から忍城ではなく堤の方に水が溜まってしまい土塁は決壊。作戦は失敗に終わりました。その土塁の一部が現在も残っており「石田堤」と呼ばれています。

 4日目は岐阜県と愛知県、まずは大垣城を攻略です。美濃と近江の境に位置する要衝ですが、現在は津城などと同じように市街地に埋もれてしまい、商店街を歩いていてふと横を見たら「あ、こんなところに城があった」という感じでした。


大垣城は本丸だけがかろうじて残る


天守台の石垣には洪水の高さが刻まれている

 大垣は明治29年に大洪水に見舞われたとのことで、その水位の高さには少し驚きました。水の深さは4.2mにも及んだと言います。天災はホント怖いですね。

 ちなみに大垣城の天守は戦前まで現存していましたが、太平洋戦争の空襲によって焼失してしまい、現在のものは外観復元です。大垣城の側にある郷土館は天守のチケットで入ることができるのですが、時間があまりなかったので在りし日の大垣城のジオラマだけ見て後にしました。


郷土館は撮影禁止だが、このジオラマだけは撮影が可能

 続いては豊橋にある吉田城。東海道の宿場町でもあり、三河における重要な拠点のひとつでした。天守の代わりであった鉄櫓が模擬再建されています。


豊川越しに見ると絵になる鉄櫓

 町中にあるので大垣城と同様に遺構は少なめなのかと思いきや、本丸のみならず二の丸、三の丸にも土塁が残っているなど、悪くない状態です。本丸には石垣も残っており、なんでも一部は名古屋城の築城で余った石材を流用しているとかで、大名の家紋が刻まれている石もあります。


本丸を取り囲む石垣と掘

 ちなみに鉄櫓は15時に閉まってしまうので注意が必要です(私は本丸の写真を撮っているうちに、目の前で閉館した)。隣接する市庁舎東館の13階はちょっとした展示があり、その窓から城全体を眺めることも可能。


この木々に覆われた公園全体が、かつては吉田城だった

 5日目は静岡県にある3つの城です。まずは熱海から電車一本で行ける(でも2時間半乗りっぱなし!)浜松城。徳川家康が武田氏の侵攻に備えて築いた城で、駿府城を築くまで家康が長らく居城としていた城です。


石垣で築かれた天守曲輪には模擬天守が聳え建つ


八幡櫓跡からは石垣、天守門、天守を見渡すことができる

 例のごとく市街地化に飲み込まれ、本丸の天守曲輪とその周囲しか現存していませんが、荒々しい雰囲気の石垣はなかなか良い感じ。ただ、石垣の間に詰め込まれた小さな石材が昔の観光客に抜かれてしまったらしく、ややすきっ歯な印象ですかね。


かつては附櫓があった部分、模擬天守は附櫓を再現していない

 浜松の象徴かつ土曜日ということもあり、浜松城は朝から結構な人出。特に天守内はかなり混みあっていました。天守の周囲を見た後は、浜松城の前身である引馬城(現在は東照宮が鎮座)も見に行ったのですが、ここもやはり結構な参拝客がいました。

 浜松駅の後は、東海道線を少し戻って大井川のたもとにある金谷駅へ。そこから旧東海道を上って諏訪原城へ行きました。ここはカブ旅行で来たことがあるのですが、以前よりも整備が進んでおり新たにビジターセンターもできていました。


石畳が敷かれた旧東海道

諏訪原城は武田氏が築いた要衝の城で、武田流の築城技術である三日月掘りによる丸馬出が二の丸を取り囲んでいるのが特徴的です。二度目なのでさらっと流すつもりだったのですが、発掘調査に基づいて再建された門や、新規の案内板もあったのでついつい一通り周ってしまいましたよ。


巨大な三日月掘りが迫力満点


以前は見てなかった堀の下のカンカンを見ることができて満足

 最後は富士山の南麓、愛鷹山の麓にある興国寺城です。北条早雲が初めて城主を務めた城で、ここを足掛かりに伊豆国を手に入れ、そして関東へと進出していきました。


本丸、二の丸、三の丸が段状に続く

 中でも本丸は巨大な土塁によって三方を囲まれており、なかなかにユニークな縄張りです。本丸の裏手は天守台もあり、部分的ではありますが石垣も見られます。


天守台を支える石垣


天守台の背後、北曲輪との境には深い堀もある

 史跡としての整備が徐々に進んでいるようで、かつて三の丸にあった住居はすべて撤去されています。今後はもっと散策できる範囲が広がりそうな気がしますな。

 というワケで、夏の18切符では全部で9の城を巡ることができました。冬の18切符期間でも、精力的に城巡りをしたいと思っています。……が、その前に、徐々に涼しくなってきているこの秋、カブでちょいと長めの旅行に出たいと思います! 目指すは北の大地!

posted by きむら at 21:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2019年09月08日

カブで二泊三日の伊豆旅行


 8月の28日から30日にかけて、二泊三日で伊豆にカブで旅行してきました。主目的は南伊豆町の山の中にある石切り場の見学ツアーです。

 28日は朝から大雨で、大粒の雨が吹き付ける中、必死にカブを走らせること約4時間。アップダウンが激しい海岸沿いの道は雨のみならず後ろからくる車の恐怖もあって、なかなかのしんどさでした。


宿泊地は伊東市の青少年キャンプ場

 伊豆にはたくさんのキャンプ場がありますがどれもこれも高く、「それなら民宿に泊まるわい!」というような料金設定。そのような中、伊東市が管理しているこのキャンプ場はなんと無料! 大室山の側にあり、おそらく林間学校とかでの利用を想定しているのだと思うのですが、炊事棟には電気コンセントもあって設備は十分。しかも原則一日一団体なので貸し切り状態! 電話による事前予約と現地での受付が必要で、土日祝日は早い時期に埋まってしまうのだと思いますが、伊豆旅行の拠点に便利な素晴らしいキャンプ場です。

 28日は一日中雨だったので何もできなかったのですが、石切り場ツアーに参加する29日は天気が良く幸いでした。早めにキャンプ場を出発し、時間にかなり余裕があったので南伊豆町に行く前に開国の地である下田を散策しました。


幕末にアメリカが領事館として使った玉泉寺の黒船乗組員墓地


墓碑に刻まれている碑文が超アメリカン!

 玉泉寺や日米下田条約が締結された場所である了仙寺、町並みなどを見て周ってからツアーの集合場所である某所へ。今回私が参加した石切り場ツアーは安全の都合上2人以上でないと参加できないのですが、この日はたまたま他の参加者がおり、その方々に便乗する形で参加させて頂きました。


実に素晴らしい経験ができました

 この石切り場ツアーの詳細はデイリーポータルZの記事として現在執筆中ですので、そちらの掲載をお待ちください。余計な手を加えず自然のままを活かしており、実にワイルドかつ神秘的な石切り場でした。

 なお、この石切り場は私有地にあります。見学するにはツアーへの参加が必要で、許可のない立ち入りは不法侵入になりますので絶対にやめてください。オーナーは厳格に管理されており、実際に逮捕者も出ているようです。

 ツアーでは様々なお話を聞くことができ、その中で伊豆半島の南西部にある松崎町にも石切り場があるとのことで、ツアーの終了後にはそちらにも行ってみました。


現在は松崎町が管理している「大室洞」

 先ほどの石切り場は下へと掘る露頭掘りがメインだったのですが、こちらは坑道のように横から石を切り出していた石切り場です。入口には石工を模したと思われる人形が鎮座していたりと、良くも悪くも町が管理している施設といった感じ。

 また町が管理しているとはいえ現地には管理人等がおらず、17時になると自動的に電気が落ちるとのこと。内部はちょっとした迷路のように入り組んでおり、中には水が溜まっていたりもするので、突然真っ暗になったらと思うと背筋が寒くなります。


最後には岩科学校も見てきました

 松崎町の岩科地区にある岩科学校は、明治13年(1880年)に竣工した学校建築で重要文化財に指定されています。先日国宝になった松本の開智学校と同じ擬洋風建築ですが、こちらは海鼠壁など、より和風の色合いが強い印象。

 とまぁ、そんな感じで伊豆半島をざっくり見て周ったのですが、思った以上に時間が押してしまい岩科学校出たのは16時。日没までにキャンプ場に戻らないとと思い、松崎町から伊東市ままでの最短距離の道を選んだのですが、これがとんでもない山道で焦りました。しかも仁科峠はガスに覆われていてほとんど視界がなく、ホント怖かったです。やはり旅行は十分な余裕を持つことが必要ですね。

 ちなみに30日もまた朝から大雨で、何もできずに撤収するだけでした。天気に恵まれていたらもっと色々見たかったんですが、まぁ、ツアーの予定が決まっていたのでしょうがないですね。今回の旅行で伊豆のポテンシャルを知ることができたので、そのうちまた行くとします。

posted by きむら at 20:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行