10月9日から24日にかけて、カブで北陸を旅行してきました。9月の北海道&東北旅行と同じく主要目的は続100名城巡りで、その近くにある文化財を見て周った感じです。今回はその後半、富山県からスタートです。
富山県では高崎市の雨晴海岸でキャンプしていたので、その周辺の文化財を見て周りました。まずは高岡城下の港町であり、北前船の寄港地としても栄えた伏木です。

越中一ノ宮でもある「気多神社」は本殿が重要文化財

伏木の中心にある「勝興寺」。境内の建物の多くが重要文化財
伏木は以前にも町並みを見に来たことがあるのですが、気多神社や勝興寺は初めて。何年か前、ずっと続いていた勝興寺本堂の修理が完了したというニュースを目にしたので、今回改めて訪れてみたのです。……が、たしかに本堂の修理は終わっていましたが、それ以外の建物の修理や境内の整備工事はいまだに続いており、残念ながら全ての重文建造物を見ることはできませんでした。整備が終わったらまた来よう。
その後は砺波平野を南下して、続100名城である「増山城」へ。まずはスタンプが置いてある砺波市埋蔵文化財センターに立ち寄ったのですが、ここの係員さんがとても良い人で、いろいろ教えてもらったり、パンフレットを頂いたりしました。前日に訪れた福井城が冷たい印象だっただけに、温かみのあるおもてなしが対照的でお城の散策も気分良くできました。

想像より遺構も素晴らしく、じっくり見て周った「増田城」
富山県からは、源平合戦で有名な倶利伽羅峠を越えて石川県に入りました。牛の角に松明を括り付けて平家に放つという奇策で源氏が勝利を収めた古戦場です。峠は現在公園になっているのですが、そこで放し飼いにされていた犬に追われて退散。慌てて逃げるその様子は、火牛に追われた平家のようだったことでしょう。
石川県に入ってからは、まずは国道8号線バイパスの真下にある「加茂遺跡」に立ち寄りました。古代の北陸道とそれに伴う官衙の遺跡ですが、かつての官道が現在の幹線道が重なり合うその姿がなんとも象徴的です。

古代の官道と現在の幹線道が交差する「加茂遺跡」
他にもいくつかの遺跡を見つつ日本海に沿って南下し、道路がが混みそうな金沢市街地を迂回して西金沢に出ました。この辺りにも文化財が数多く、それらをひとつひとつ見て周った感じです。中でも縄文時代後期から晩期の「御経塚遺跡」にはちょっとした博物館が併設されており、重要文化財に指定されている出土品を無料で見ることができます。

重文の出土品が並び、見応えがある「御経塚遺跡」

こちらは野々市の中心部に位置する「喜多家住宅」
喜多家住宅は主屋と土蔵が重要文化財に指定されているのですが、この旅行の最中に文化審議会の答申があり、主屋の裏手に建っている酒造関係の建物の追加指定が決まりました。物凄くタイムリーだったので立ち寄ってみたのですが、建物の内部を見学するには電話で係の人を呼び出さねばならないとのことで、時間がなかったこともあり今回はパス。次の目的地である続100名城の「鳥越城」へと向かいました。

織田信長に激しく抵抗した一向一揆の軍事拠点「鳥越城」
一揆というと庶民の反乱というイメージが強いですが、鳥越城は立派な石垣の虎口を備えた、どこに出しても恥ずかしくない山城です。戦争のプロである武将が一向一揆を率いていたことが良く分かりますね。なんでも本願寺が派遣した武将なのだとか。
その後は一気に石川県を縦断して福井県に入りました。その北端にあたる吉崎町には、本願寺第8世法主の蓮如が北陸の布教拠点として築いた「吉崎御坊跡」が存在します。戦国時代に廃坊となり現在は石碑や蓮如が腰掛けたという石などが残るのみですが、かつては城郭のようなたたずまいの大寺院だったことでしょう。

「吉崎御坊跡」の本堂跡にポツンと立つ石碑
途中で現存12天守のひとつである丸岡城に立ち寄りつつ(平日なのに物凄く人が多かったので早々に辞去した)、続100名城に選ばれている「福井城」へ。ここは本丸内に県庁と県警本部が鎮座しているとのことで、遺構の残りはあまり良くないだろうと思っていたのですが、意外にも見どころが多くて良い誤算でした。天守台には福井という地名の由来となった井戸「福の井」があったりもします。

御廊下橋や山里口御門が復元されている「福井城」
福井からは東へ移動してやはり続100名城の「越前大野城」へ。ここはまぁ、よくある感じの平山城ではあるのですが、訪れる人が多く、地域のシンボル的な存在として親しまれているんだろうなと思いました。盆地を一望できる天守からの眺めもなかなか良いです。ただ、正午に爆音のサイレンが鳴り響いたのにはビックリしましたが。

天守台の石垣がなかなか迫力がある「越前大野城」
越前大野の後は、国道476号線と県道203号線を走り、予約していたキャンプ場のある敦賀市を目指しました。その途中の池田町には国指定名勝の「梅田氏庭園」が存在します。名前からしてプライベートな雰囲気がプンプンしていたので拝観できるとは思っておらず、実際、個人宅の前に説明板が立っているだけだったのですが……なんとたまたま家主さんがおり、「興味あるならちょと見ていきませんか」とお声掛け頂きました。

普段は拝観できない、超レアな「梅田氏庭園」
なんでも家主さんは普段東京に住んでおられるとのことで、庭園の公開要望はあってもなかなか応えられていないとのこと。たまたま翌日が即位礼正殿の日の特別公開とのことで、その準備として草刈りをしていた時に立ち寄ったのでした。
家主さんに招かれるまま庭園に入ってみてビックリ。地方の個人宅とは思えないような、実に洗練された池泉回遊式庭園だったのです。美しく苔むしており、まるで京都の西芳寺のよう。話に聞くと、梅田氏の祖先は平氏の落人とのことで、庭園に京都趣味が反映されているとのこと。貴重な庭園を拝観することができて、家主さんには本当に感謝感激です。
敦賀でも文化財をザックリ見て周りました。北陸への入口である敦賀に鎮座する気比神社は、北陸道総鎮守として古くより信仰を集めてきました。その大鳥居は正保2年(1645年)の建造で、重要文化財に指定されています。また松尾芭蕉も訪れ句に詠んだことから、その境内は『おくのほそ道の風景地』の一部として国の名勝にも指定されています。

重文の大鳥居が聳え、国指定の名勝でもある「気比神宮」

日本三大松原のひとつに数えられる「気比松原」も名勝指定だ
敦賀からは少し西へと進み、続100名城の「佐柿国吉城」へ行きました。山の麓に城主が住む居館があり、山頂には戦時の際に籠城する詰丸を備えた、典型的な中世山城です。織田信長による朝倉討伐の際にも拠点として使用されたのだとか。

山頂からの眺めが素晴らしい「佐柿国吉城」
続いては、福井県と滋賀県の境に位置する「玄蕃尾城」。本能寺の変で信長亡き後、信長の後継者を決める清須会議にて羽柴秀吉と対立した柴田勝家が国境の防衛拠点として築き、賤ケ岳の戦いで勝家の本陣が置かれた山城で、こちらも続100名城に選ばれています。賤ケ岳の戦いに敗れた勝家は北ノ庄城(現在の福井城)へ敗退した後に切腹。秀吉の天下が始まりました。
県境ということでかなり山深い場所にあり、登城路も細い林道を上り詰めたその先から始まります。私はカブなのでまだマシでしたが、公共交通機関で城巡りをしている人には物凄く不便な立地でしょうね。

山頂に土塁や堀が状態良く残る「玄蕃尾城」
さらに滋賀県を南下し、同じく続100名城の「鎌刃城」へ。中山道の番場宿沿いという交通の要衝にして、北近江と南近江、そして美濃との国境に立地する重要な山城です。事前情報によるとヒルが多いとのことで、足首の露出をなくして挑んだのですが、幸いにも遭遇することはありませんでした。ただ、この日は三つ目の山城だったので、城に辿り着いた頃はかなりへとへとになっていました。

「鎌刃城」は尾根沿いに曲輪が連なり、虎口には石垣も見られる
最後は岐阜県にある三つの続100名城を巡りました。そのうち「郡上八幡城」は以前の旅行で訪れたことがあるので、天守だけさらっと見て早々に出発。信長の小姓であった森蘭丸で有名な森氏の居城である「美濃金山城」、そして険しい岩山に築かれた特異な城「苗木城」を周ってフィニッシュです。

「郡上八幡城」の天守は昭和8年に築かれた最古の木造復元だ

発掘調査や石垣の復元工事が行われていた「美濃金山城」

天守を始め、建物の多くが懸造で築かれていた「苗木城」
とまぁ、そんな感じで無事帰宅しました。上越や高岡の辺りはかなり丁寧に文化財を周れていたのですが、最後の辺りは駆け足で続100名城だけを巡った感じになってしまいましたね。もう少しゆっくり見て周っても良かったかなぁと反省です。
次の長期旅行は暖かくなってから(ゴールデンウィーク後でしょうか)ですが、その前に冬と春の18切符期間がやってきますので、JRでどこかに行くことでしょう。