2019年04月25日

神奈川&東京の続100名城巡り


 最近、再び自分の中で城熱が高まってきているということもあり、ここ数日で自宅から近い神奈川県&東京都にある続100名城を巡ってきました。

 まずは豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして小田原を攻める際に築いた石垣山城。後北条氏の本拠地である小田原城の南東、笠懸山の頂上に位置しており、急な農道を上っていくと突如として巨大な石垣が現れます。


関東で初めて築かれた総石垣の城です


現在は石垣の多くが崩れかけている

 石垣山城は完成してから木々を伐採したことで、小田原城からはまるで一夜にして城が出現したように見えたことから「一夜城」とも呼ばれています。

 天下統一を間近にした秀吉の権威を象徴するかのように、ただの前線基地とは思えないほどに立派な城郭です。これが突如として現れたのだから、後北条氏の戦意は瞬く間にしぼんだことでしょう。

 石垣山城は後北条氏の滅亡と共に役目を終えて破棄され、現在は石垣が崩れかけていて少々痛々しい感じです。


本丸には天守台の跡もあり、とても立派な近世城郭


広々とした二の丸には、馬屋が置かれていたらしい

 圧巻なのは二の丸の北側にある井戸曲輪です。谷の地形を石垣で塞いで井戸としたもので、現在も石垣が崩れることなく往時の姿を留めています。


石垣に囲まれたすり鉢状の底で、現在も水が湧いています

 四方を石垣で囲まれたその内部は、まるでインドの階段井戸のようで物凄い存在感。これを見に来るだけでも石垣山城を訪れる価値は大いにあると思います。写真では伝えきれない迫力なので、ぜひとも実際に目で見て頂きたい。

 さて、お次は品川台場です。幕末に黒船の来航に脅威を感じた江戸幕府によって築かれた砲台跡で、お台場という地名の由来にもなっています。江戸湾(東京湾)を塞ぐように計11基の築造が計画されて6基が完成。その後の撤去や埋め立てにより、現在は第三台場と第六台場のみが現存しています。


現在はお台場海浜公園と陸続きの第三台場跡


コンクリートで築かれた砲台のレプリカが展示されている


土塁の内側には本陣を中心に弾薬庫や竃跡などが存在していた

 品川台場には2008年にデイリーポータルZの取材で訪れたのですが、当時はほとんど人がおらず貸し切り状態だったように思います。しかし現在は犬の散歩やウォーキングの方々が多く訪れており、地元の人々の憩いの場になっているようですね。


こちらは現在も海の中にある第六台場跡


現在は植物&鳥の楽園となっており立入禁止

 以前の時と同様にレインボーブリッジを歩いて渡り、第三台場と第六台場の全景を写真に収めてから帰りました。やはり以前はレインボーブリッジを歩く人はほとんどいなかったと記憶していましたが、現在は若いカップルや外国人旅行者など結構な人が歩いており驚きました。決して短くはない距離なのですが、まぁ、楽しいもんね、橋を歩くの。

 三箇所目は新横浜の近くにある小机(こづくえ)城です。関東戦国時代初期の長尾景春の乱において景春側の豊嶋氏が籠り、太田道灌に攻め落とされた城で、その後に後北条氏が整備して支城としていました。


竹林に覆われた丘に遺構が良好に残っています


各郭を空堀と土塁が取り囲んでおり迫力満点!

 小机城は主に「東郭」と「西郭」、およびその間に位置する「つなぎ郭」から成り、それらの周囲に土塁と空堀が巡らされており、角馬出で防御を固めた北条式の縄張です。


東郭には櫓台も残っている


各郭は土橋で接続されており、容易に行き来が可能

 コンパクトな城ながらも複雑に入り組んだ空堀が大迫力で、遺構のまとまり具合は武田の古宮城に対する北条の小机城と評したい……と思ったのですが、ひとつだけ(そして致命的な)問題が。


西郭の西側が第三京浜道路でぶった切られているのだ

 第三京浜は遺跡の保護よりも開発が優先された高度経済成長期に築かれたということもあり、まぁ、しょうがないのかもしれませんが、この破壊は小机城の価値を大きく損ねているのは間違いないでしょう。高知県の添蚯蚓遍路道が高速道路でぶった切られているのを見た時と同じような喪失感を受けました。

 さて、気を取り直して四箇所目は東京都の八王子にある滝山城です。多摩川沿いの丘陵をまるごと使って築かれた、後北条氏の支城です。


こちらもまた竹林があり、どことなく小机城と似た雰囲気


小机城と同様、各郭を空堀と土塁が取り囲んでいる

 同じ後北条氏の城なだけに、滝山城は小机城をスケールアップした感じ。というか、これを見た後だと小机城がまるでミニチュアのように思えてしまうくらいに超巨大な山城です。

 特にすべての登城道が合流する二の丸の守りは厳重で、南側の大馬出を始めすべての虎口に角馬出が設けられています。実際、滝山城は武田氏によって攻められていますが、結局二の丸は突破できず寡兵で凌ぎ切ったといいます。


馬出にしては巨大な、その名もズバリ「大馬出」


本丸へは木橋が架けられているが、当時は引橋だったそう


山の神曲輪から眺める多摩川

 とまぁ、滝山城は非常に立派で広大な城ですが、武田氏により落城寸前まで追い詰められたことから新たに八王子城が築かれ、滝山城は廃城になったといいます。

 滝山城は比較的なだらかな丘を使っていますが、小田原城は急峻な山を使ったガチの山城。近世城郭的には滝山城のほうが伸びしろがあるような気がしますが、まぁ、間もなく後北条氏は秀吉によって滅ぼされますので、あれこれ言っても詮無き事ですかな。

 ところで、今回訪れた四箇所のうち品川台場を除く三箇所は自宅からカブで行きました。最近、カブにスマホを取り付けるマウントとホルダーを装着したので、そのテストも兼ねてのツーリングだったりします。


スマホの出し入れが不要になって超便利

 特に地図での位置確認が格段に便利になり良い感じです。今後のカブ旅行で大いに活躍してくれることでしょう。

posted by きむら at 15:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2019年04月14日

茨城県の笠間城&土浦城を散策してきました


 春の18切符旅行の締めくくりとして、4月5日に茨城県の笠間市に行ってきました。目当ては続100名城の笠間城です。

 JR常磐線と水戸線を乗り継ぎ、9時過ぎに笠間駅に到着。てくてく歩いて町の中心部まで行き、まずは笠間稲荷神社に参拝しました。


日本三大稲荷のひとつである笠間稲荷神社


その本殿は幕末の文久元年(1861年)に築かれたもので重要文化財


北関東に多い、装飾著しい近世社寺建築です

 四方を山々に囲まれた盆地に位置する笠間の歴史は深く、この笠間稲荷神社のみならず他にも重要文化財の建築や仏像があるのですが、それらは町から離れており足がないと厳しそうなので今回はパス。素直に主目的の笠間城に向かいました。

 門前通りの東端にある、明治の三階建て旅館をリノベーションした「かさま歴史交流館井筒屋」に立ち寄って笠間城の縄張図を頂き、下屋敷跡にあたる佐白山麓公園から伸びる登山道を上がります。10分足らずのちょっとしたハイキングで本丸に到着しました。


桜が咲いていたけど、平日ということもあって人っ子一人いなかった

 本丸には八幡台と呼ばれる巨大な土塁や、櫓の基礎などが残っており、遺構の現存度合いはなかなかのもの。というのも、笠間城は山城としては珍しく江戸時代も笠間藩の居城として現役でした。さすがに政庁は山麓にあったようですが、山上の建物も明治維新まで維持されていたのです。

 本丸からさらに石段を上がった山頂には天守曲輪が存在します。慶長3年(1598年)に蒲生氏が笠間城を世城郭へ改築した時に築かれたもので、天守がある山城はそう多くありません。


天守曲輪には4mの石垣が築かれている……が

 東日本の城にしては珍しく結構高い石垣ですが、残念ながら2011年の東日本大震災により一部が崩れてしまい、現在も修復されておらず痛々しい感じです。石段は整えられているので頂上まで登ることはできますが、一部はいまだに立入禁止で本格的な修理が望まれます。


現在、天守跡には佐志能(さしのう)神社が鎮座している


本殿を取り囲む壁は、天守の屋根瓦を積んだものとのこと

 佐志能神社の建物自体も、天守の用材を再利用して建てられたといいます。神社に姿は変わりましたが、天守の部材は今もなお残っているのですね。

 縄張図を見ると、天守曲輪の東麓に「石倉」なる表記があり、気になったので見に行ってみることにしました。石で築かれた倉でもあるのかと思いきや、そこは巨石が露出する採石場でした。


石材がゴロゴロ転がり、楔を打ち込んだ矢穴も見られます

 東日本に石垣を持つ城が少ないのは、良い石材が採れる採石場が少ないという理由があります。笠間城は城内に採石場を抱えていたからこそ、巨大な石垣を築くことができたのですね。なるほどなぁ、と大いに納得。

 さて、行きは後世の登山道を使って本丸に直接出ましたが、帰りは城の正面玄関である大手門から出ることにしました。


大手門跡にも石垣が残っていました

 大手門跡から駐車場となっている的場丸を抜け、車道を歩いて行くと、道端に巨大な大岩が現れました。地図を見ると、どうやら大黒石とのことです。


道路の脇にたたずむ大黒石

 なんでも鎌倉時代のはじめ、佐白山を拠点とする僧兵が、笠間の北に位置する徳蔵寺の僧兵に攻め込まれた際、山上にあった大黒石を転がして撃退したという伝説が残っているようです。

 大黒石の中ほどにはヘソと呼ばれる小穴があり、小石を三回投げて一度でも入れば幸せがあるといいます。試しに投げてみたら、ちょうど三回目で穴に入りました。良いことあるかな。

 大黒石からは、坂尾の集落を通って笠間城の北口にあたる「坂尾の土塁」を目指しました。その途中には坂尾不動尊があり、かつてはここに坂尾門という城門があったそうです。


坂尾不動尊周辺は未舗装路の坂道で、往時の雰囲気が残っています


その先に位置する「坂尾の土塁」

 北の防衛前線である「坂尾の土塁」は左右をずらして築いた「食い違い虎口」となっており、かつては土塁の外側に堀が存在していたとのこと。道路の整備によって東側の土塁が少し削られたそうですが、想像していたよりもずっと状態が良くて驚きました。

 坂尾の土塁からは車道を西へと進み、真浄寺というお寺に向かいました。笠間城の本丸にあった、八幡台櫓が移築されているお寺です。


左が真浄寺の本堂で、右奥が八幡台櫓


いやはや、なかなかに立派な櫓ですな

 明治の廃城令に伴い、明治13年(1880年)に払い下げられたとのことで、現在は「七面堂」という仏堂として使用されています。正面は向拝が付けられているものの、背面から見ると、まごうことなき城郭建築。唯一現存する笠間城の建造物として非常に貴重な存在です。

 とまぁ、山頂から山麓まで笠間城を満喫することができました。かなりの距離を歩いたので結構くたびれましたが、せっかく茨城県にきたので笠間城と同じく続100名城になっている土浦城にも立ち寄りました。


土浦城はさくら祭りの開催中で賑わっていました


本丸入口の櫓門は明暦2年(1656年)のものが現存している

 霞ヶ浦の西端に位置する土浦城は幾重にも水堀を巡らせた平城でしたが、現在はその大部分が市街地となり、本丸と二の丸、御用米蔵の部分のみが公園として整備されています。

 非常にコンパクトな印象ですが、江戸時代の門が現存しており、また東櫓と西櫓が木造で再建されているなど本丸周りが良い感じです。東櫓は内部が公開されており、拝観料は土浦市立博物館と共通で105円とお得感があります。


立派な木材は国産のものを使用しているとのこと


二階からは満開の桜が面前で素晴らしかった

 というワケで、春の18切符をすべて使い切ることができました。次の旅行は5月中旬に沖縄へ行くことが決定しているのですが、最近再びお城熱が加熱してきているので、その前にちょっとだけ城巡りをしようかな。

posted by きむら at 15:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2019年04月07日

18切符で群馬三城攻略


 春の18切符旅行第三弾。4月2日に日帰りで群馬県の続100名城を巡ってきました。

 まずは東吾妻町にある岩櫃(いわびつ)城です。岩櫃山の中腹に位置する中世山城で、JR吾妻線の群馬原町駅から歩いて行ったのですが、その道中からしてとても楽しかったです。


岩櫃城へと向かう、番匠坂の入口


途中から未舗装の山道となり、雰囲気満点

 駅から岩櫃城まで約40分と結構な距離ですが、車で直接乗り付けるのでは味わえない風情ですし、駅から徒歩での登城を強くオススメしたいですね。


途中には水力発電のダムがあった……が、今の季節は水がないようだ

 東の木戸を過ぎた辺りから地形がなだらかになり、この辺りにはかつて城下町が広がっていたようですが、現在はダムが築かれています。岩櫃山も良く見えるようになり、いよいよお城に入るぞという気分が高まります。


右奥が岩櫃山の山頂で、その左手前が岩櫃城の主郭


要害地区に入った途端、横堀や竪堀が出迎えてくれた


程なくして中城に出た。要害地区で一番広い郭のようだ

 戦国時代、岩櫃城は吾妻氏の流れを汲む斎藤氏が吾妻郡を支配する拠点として使用していました。後に真田氏の領土となり、真田氏の本拠地であった信濃国の真田と上野国の沼田を繋ぐ重要拠点として整備されています。


まるで竪堀のようなV字型の山道を登っていくと――


二の丸を経て主郭の本丸に辿り着いた


主郭から伸びる竪堀がとてもダイナミック

 本当は岩櫃城から西の木戸を通って郷原駅へと抜けようと考えていたのですが、主郭で吾妻線の時刻表を確認したところ次の列車を逃すとその次までかなりの時間が空いてしまうことが判明。元来た道をたどって群馬原町に引き返しました。

 お次はJR上越線の後閑駅から徒歩約40分のところにある名胡桃(なぐるみ)城です。左右を断崖絶壁に囲まれた険しい山城ですが、現在は国道17号線が通っているのでなんてことはありません。まったくもって普通の道路なので面白みはありませんが。


尾根に沿って郭が並ぶ連郭式の山城です


コンパクトながら、遺構が良く残っていて往時の姿が想像しやすい


各郭は堀切によって仕切られおり、橋が架けられている

 名胡桃城は沼田城を築いた沼田氏により支城として築かれたとされ、戦国時代には真田氏が北条氏に奪われた沼田城を奪還する為の前線基地として整備しました。


ささ郭にある祠には、六文銭(真田氏の家紋)の形に五円のお供えが


一番先端の物見郭へは道が未整備で行くのがちょっと怖い感じ

 その後、豊臣秀吉の裁定により沼田城は北条氏の領土となりましたが、名胡桃城に関しては真田氏が「先祖の墓地がある」と(おそらく嘘の)主張をし、真田領のままとなります。


国道17号線から一望する沼田(左の木々が茂っている部分が沼田城)

 こんな沼田城の目と鼻の先に真田氏の名胡桃城があるなんて、北条氏にとってさぞ目障りだったに違いありません。事実、秀吉の裁定を不服とした北条氏は名胡桃城を強引に奪取し、この名胡桃城事件をきっかけに豊臣秀吉は小田原征伐へと乗り出し北条氏は滅亡。沼田城は真田氏のものとなり、名胡桃城は廃城となりました。

 こうなることを期待して真田氏は名胡桃城を死守したのか、あるいはこうなること期待して秀吉は真田氏に名胡桃城を安堵したのか、いずれにせよ知略渦巻く感じです。


というワケで、最後は沼田城を見てきました


現在、沼田城は公園になっており、地元の人々で賑わっています

 沼田城は上野国の要衝に位置しており、各勢力によって奪い合いがなされました。最終的に真田氏の領土となりますが、江戸時代中期に真田氏が改易され沼田藩は廃藩となり、沼田城も廃されます。その後に沼田藩は復興したものの、城の本格的な再整備はなされず明治維新を迎えました。なるほど、だから遺構があまり残っていないのですな。


それでも、西櫓台などに石垣が残っていたりする


あとは、河岸段丘の縁に位置する立地が見どころだろうか


それと、沼田城へ続く階段の木造アーケードがエモかった

 とまぁ、何とか一日で群馬県にある三箇所の続100名城を巡ることができました。やや鉄道の時間に追われたこともあって、各城ごとにもう少し時間を掛けたかったという感じもしますが、それでも良い城巡りができたと思います。

posted by きむら at 14:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行