9月の北海道&東北旅行に続き、10月9日から24日にかけて北陸旅行に行ってきました。秋のカブ旅行第二弾、そのご報告です。
メインの目的は北陸の続100名城をかっさらうことだったので、なにはともあれ新潟県の上越へと抜けなければなりません。そこまでは色々なルートが考えられるのですが、まだスタンプを貰っていない続100名城の「諏訪高島城」を経由していこうかなと、とりあえず長野県の諏訪湖を目指したのでした。

高島城は以前に来たことがあるけど、天守に上ったのは初めて
ちなみに諏訪からは国道152号線が南アルプスに沿って南北に伸びています。その途中には二箇所の未開通区間があり、2014年にはそのうち南側の「青崩峠」を歩いてデイリーポータルZの記事にしました。→「国道152号線の未開通区間を歩いた」
もうひとつの「地蔵峠」にも行きたいなとずっと思っており、せっかく諏訪を経由するのだからと、丸一日かけて地蔵峠まで寄り道してきました。

山道に国道の標識があって驚いた
この「国道152号線のもうひとつの未開通区間」につきましては、デイリーポータルZに記事を書かせて頂くことになっていますので、その掲載をお待ちください(早く原稿書かないと!)。
さて、なんとか地蔵峠の取材を終えて諏訪にまで戻ってきたものの、例の台風19号がぐんぐん近付いてきていました。出発する日までは新潟は「くもり時々雨」みたいな感じだったので、北陸まで抜けてしまえば影響は少ないと考えていたのですが、いつの間にか新潟もまた「暴風を伴う雨」に変わっており、いやぁ、見込みが甘かったと言わざるを得ません。というワケで、急遽一時帰還。自宅で台風をやり過ごしてから、仕切り直して再出発しました。
高島城と国道152号線をクリアした今、諏訪を経由する必要はなくなったので、今度は八王子に出てから八高線沿いに北上。埼玉県比企郡に残る中世城郭を周りました。

関東の中世山城では珍しく石垣が見られる「小倉城」

台風の後ということで、「菅谷館」の堀には水が溜まっていた

コンパクトながら、とても複雑に入り組んだ縄張の「杉山城」
このうち菅谷館と杉山城が続100名城なのですが、菅谷館のスタンプ設置場所である博物館が臨時休館で閉まっていました。まぁ、大型台風の翌日なので当然といえば当然なのですが、後日スタンプを貰いに再訪することに。ちなみに杉山城のスタンプは嵐山町役場にあり、台風翌日でも開いており問題なく押すことができました。さすがはパブリックなお役所ですな。
群馬県に入ってからは西へと向かい、碓氷峠を越えて長野県に入りました。その手前、妙義山麓に鎮座する「妙義神社」にも寄ったのですが、この社殿が想像していたよりずっと良いもので参拝した甲斐がありました。

久能山東照宮を彷彿とさせる、きらびやかな権現造の社殿だ
また長野県の軽井沢では明治の西洋式ホテル「旧三笠ホテル」を拝観し、これまた素晴らしく上質な建築で驚きました。昔から避暑地として賑わってきた軽井沢ならではの文化財だといえるでしょう。

明治の西洋式ホテルとして現存唯一とのこと
既に10月ということもあって標高の高い長野県は肌寒くなってきており、サクっと通過して上越に出ることにしました。道が混みそうな長野市街地を迂回して山へと入り、戸隠高原では戸隠神社の奥社に参拝しました。

奥社までの参道には杉の巨木がズラリ
重伝建に選定されている戸隠の宝光社と中社は取材で訪れたことがあるのですが、その時は奥社までは行けなかったので今回改めて訪れた感じです。駐車場から奥社まで片道30分と結構距離があるので、意外と時間が掛かります。まぁ、その道のりも見どころが多くて楽しかったのですが。
戸隠からは信濃町へと下り、そして関川を越えて新潟県へ――と、県境を越えたと同時に雨がパラパラと。まるでスイッチを切り替えたかのように天気が変わったので、今しがた地域が変わったのだと身をもって実感できました。ホント、北陸は雨が多いですよね。

雨が降る中、関山神社の「旧関山宝蔵院庭園」を散策
関山神社は妙高山を御神体とする神社で、明治の神仏分離令までは宝蔵院という別当寺が存在していました。この庭園はその寺院の庭園で、妙高山を借景とする滝石組が組まれています。雨降りなので妙高山を望むことはできませんでしたが。残念。
上越では丸一日使って文化財巡りをしました。続100名城に選ばれている「鮫ヶ尾城」にも登ったのですが、登城路の途中には弥生時代後期の集落遺跡である「斐太遺跡」が広がっていて、一粒で二度おいしく楽しめました。

戦火に備えて山に築かれた集落跡の「斐太遺跡」
この地域の人々は弥生時代中期まで平地に暮らしていたのですが(吹上遺跡)、クニとクニとの争いが激しくなったことで避難し、山に集落が築かれた(斐太遺跡)と考えられています。戦争が終結した弥生時代終末期には再び平地へと戻り(釜蓋遺跡)、古墳時代を迎えました。この三つの遺跡を合わせることで時代ごとの集落の変遷がよく分かることから、三箇所をまとめて「斐太遺跡群」として国の史跡に指定されています。

周囲には「観音平・天神堂古墳群」など古墳も多い
さて、「鮫ヶ尾城」に話を戻しましょう。山を登っていくとやがて尾根を断ち切る堀切が見られるようになり、いくつかの曲輪を越えて鮫ヶ尾城の山頂に到着。ここは上杉謙信の跡継ぎを巡り勃発した「御館の乱」において上杉景虎が立てこもり自刃した中世山城で、その際に炎上したことから米蔵跡には現在も炭化した米が残っているのだとか。私にはちょっと、分かりませんでしたが。

鮫ヶ尾城は山頂からの眺めがすこぶる良かった
上越でのシメは高田市街地の中心に聳える「高田城」。徳川家康の六男であった松平忠輝の居城として築かれた近世平城で、ここも続100名城に選ばれています。本丸の北側三分の二くらいが学校の敷地で立ち入ることができませんが、西側の濠はなかなか壮大で夕日に映えます。

市民の憩いの場という感じの高田城
上越からは日本海沿いを南下して富山県を目指しました。その途中の能生(のう)という町では本殿が重要文化財の白山神社に立ち寄ったのですが、本殿の前に聳える巨大な茅葺屋根の拝殿に圧倒されました。

最初はこれが本殿かと思うくらいに立派な拝殿でした
ちなみに肝心の本殿は修理中のようで、足場に囲まれてほとんど見ることができませんでした。まぁ、この拝殿を見ることができたから良いや。
さらに南下し、ヒスイの町として知られる糸魚川では二つの縄文集落に立ち寄りました。ヒスイや石斧を加工ししていた工房もあり、それらの流通拠点であったと考えられています。

小高い丘の上に集落が広がる「長者ヶ原遺跡」
糸魚川までくれば富山県までもう少しですが、その県境地帯は北アルプスがそのまま海へ突き出たような地形。極めて急な断崖絶壁が続いており、古くより「親不知(おやしらず)」と呼ばれ、交通の難所として知られてきました。

岩山を削って細い道路が通されている
明治時代に道路が築かれる前は、わずかな海岸線を歩いて通行していたとのこと。かの松尾芭蕉もここを通り「北国一の難所」と記したことから『おくのほそ道の風景地』の一部として国の名勝に指定されています。
現在の国道8号線は岬を貫通するトンネルや洞門が通されていますが、スピードの出ないカブ(原付)で走行する身としては、追いかけてくる車やトラックが恐ろしい、今もなお北国一の難所です。
命からがら富山県に入ってからは、点在する史跡や重要文化財を巡りつつ、ゆるゆると富山市に向かって進んでいきました。

巨大な竪穴式住居が特徴的な縄文遺跡「不動堂遺跡」

北前船で大いに栄えた岩瀬集落の「旧森家住宅」
岩瀬から富山市中心部に向かう途中には、富岩運河水閘施設の「中島閘門宅」があります。閘門は水位に差のある運河で船を通すためのいわば水力エレベータ。訪れたタイミングが良く、閘門が実際に稼働する様子を目にすることができました。

「中島閘門」の水を抜き、下流へ出ていく間際の遊覧船
係員さんに聞いたところ、閘門の稼働は一時間に一回程度のようで、結構な頻度で驚きました。ちゃんと動態保存され、活用されていることに感動を覚えた次第です。
そんなこんなで続100名城の「富山城」に到着。ここは完全に市街地に埋もれてしまっており、ごく一部の石積や水堀、門が残るのみ。残念ながら全体的にあまり良い印象がなく、さらっと見てキャンプ場に向かいました。

たぶん、もう二度と訪れることはないだろう「富山城」

キャンプ場に向かう途中に見た、「旧伏木港クレーン」が素晴らしかった
というワケで、今回は10月の北陸旅行で見てきたモノのうち前半部分のご紹介でした。続きの後半は来週くらいに更新する予定です。どうぞよろしくお願いします。