9月12日から28日にかけて、北海道と東北をカブで旅行してきました。茨城の大洗からフェリーで苫小牧へ渡り、道南と東北を南下して帰ってきた感じです。メインの目的は続100名城巡りですが、それ以外にもいろいろ見てきましたのでご報告を。
私は4年前にも同じような旅行をしたのですが、その時に北海道のせたな町にある日本一危険な神社こと「太田山神社」に参拝しようとして断念しました。今回再挑戦し、なんとか本殿まで到達することに成功しました。

7mの岩壁を上った岩窟に鎮座する太田山神社本殿
その様子をデイリーポータルZの記事として書きましたので、詳しくはそちらをご覧ください。→「日本一危険な神社に参拝した!〜太田山神社リベンジ」
他にも北海道では空知の「赤平炭鉱」や「夕張炭鉱」を見てきました。特に赤平炭鉱は竪坑施設がそのままに保存されており、一日二回のガイドツアーで見学することができます。これがとにかくインダストリアルで素晴らしかった。これもデイリー向けだと思うので、近いうち記事にしたいです。

聳える竪坑とトロッコレールがたまらない
また縄文遺跡も積極的に周りました。縄文後期の「キウス周堤墓群」は初めての訪問でしたが、ドーナツ状に巡らされた周堤は迫力満点。ただ、遺跡の中心部を国道が貫いており、遺構も破壊されているのが気になりました。

巨大な周堤を持つ墓域であるが、一部は車道が貫通してしまっている
縄文遺跡といえば南茅部にも多いのですが、その道の駅に併設されている縄文文化交流センターにも立ち寄りました。交流センターとか分かりにくい名前ですが、ここは立派な博物館で、国宝の中空土偶を見ることができます。

東博の新指定文化財展以来、久しぶりに再会した中空土偶くん
10月からは長野に行くとのことで、ちょうど良いタイミングで見ることができました。ちなみに貸し出されている時はレプリカが展示されているそうです。
今回の道南旅行は和人による蝦夷地入植の歴史を知る旅行でもありました。室町時代の享徳3年(1454年)に蝦夷地に渡った安東政季とその配下の武将が築いた道南十二館のうち、現存しており史跡に指定されている花沢館、大館、茂別館、志苔館の四城に立ち寄ることもできました(うち大館は登城路が分からなかったので遠望のみ)。

そのうち志苔館は続100名城に選ばれています
長禄元年(1457年)にはアイヌが一斉蜂起したコシャマインの戦いが勃発。道南十二館のうち茂別館と花沢館を除く10の城が陥落して多くの和人が討ち取られたものの、花沢館にいた蠣崎(武田)信広の活躍によって撃退。その功績から信広は道南の支配者となります。

蠣崎信広が寛正3年(1462年)に築いた勝山館も続100名城
後に蠣崎氏は松前へと拠点を移して松前氏となり、江戸時代には松前藩主として蝦夷地におけるアイヌとの交易を支配していました。
また江戸幕府は仏教によるアイヌの教化政策も執っており、江戸時代後期の文化元年(1804年)には有珠の善光寺、様似の等樹院、厚岸の国泰寺を官寺に定め、仏教の浸透に努めました。

北海道では珍しい茅葺屋根の善光寺は国の史跡に指定されている
幕末の嘉永7年(1854年)に日米和親条約が締結され、箱館が開港されると幕府は松前藩のみならず東北の諸藩に北方警備を命じます。そのうち南部藩が築いた三箇所の陣屋「モロラン陣屋跡」「ヲシャマンベ陣屋跡」「砂原陣屋跡」が国の史跡に指定されており、すべて周ることができました。

いずれも掘と土塁に囲まれた中に建物が並んでいた
また松前藩も箱館の近くに日本初の西洋式城郭である戸切地陣屋を築いています。西洋式城郭といえば五稜郭が有名ですが、それよりも戸切地陣屋の方が早く築かれているんですよね。

想像よりも大規模で散策のし甲斐があった戸切地陣屋跡
という感じで道南をざっくり周り、山間のキャンプ場だと朝の気温が一桁とかなり寒くなってきたので箱館からフェリーで青森へと渡りました。まずは続100名城に選ばれている青森市郊外の浪岡城へ。

中世に北畠氏が築いた平城で、二重掘が特徴的だ
浪岡城の後は近くの史跡を巡りつつ津軽半島を北上。太宰治の生家である金木の斜陽館を訪れました。太宰の父親は大庄屋かつ貴族議員であり、とても個人宅とは思えない豪華すぎる造りで重要文化財に指定されています。戦前の日本において文学や芸術に興じれたのは、やっぱり金持ちの子弟ですよなぁ。

斜陽館は修学旅行の学生でごった返していました
他にも津軽半島の史跡をいろいろ見てきました。旧石器時代から縄文時代草創期の遺物が発見された大平山元遺跡はまだ未整備。将来的には遺跡内の家を立ち退かせて史跡公園として整備するようです。

近くには出土品が展示している施設もあるが、朝早すぎて開いてなかった
また有名な遮光器土偶が出土したことで知られる亀ヶ岡遺跡には4年ぶりに寄りましたが、史跡内の家屋がことごとく無くなっていて軽く衝撃を受けました。路肩には古い石仏が鎮座している歴史ある集落で、カッコ良い古民家もあったのですが……。

昔ながらの集落がまるごと消えたことに、割とショックを受けた
ここを含め、今回私が訪れた縄文遺跡の多くは「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に推薦されることが決まっており、それに伴い各遺跡は史跡公園としての整備を急いでいるのだと思いますが……史跡整備のためなら昔からあるコミュニティを破壊しても良いものなのか。結局どの遺跡も同じような整備が行われ、どこも似たり寄ったりになってしまうのではないか。ちょっと考えさせられました。
長くなるのでとりあえずはここまで。後半はまた後日に更新します。