2019年11月17日

秋の北陸カブ旅行(後半)


 10月9日から24日にかけて、カブで北陸を旅行してきました。9月の北海道&東北旅行と同じく主要目的は続100名城巡りで、その近くにある文化財を見て周った感じです。今回はその後半、富山県からスタートです。

 富山県では高崎市の雨晴海岸でキャンプしていたので、その周辺の文化財を見て周りました。まずは高岡城下の港町であり、北前船の寄港地としても栄えた伏木です。


越中一ノ宮でもある「気多神社」は本殿が重要文化財


伏木の中心にある「勝興寺」。境内の建物の多くが重要文化財

 伏木は以前にも町並みを見に来たことがあるのですが、気多神社や勝興寺は初めて。何年か前、ずっと続いていた勝興寺本堂の修理が完了したというニュースを目にしたので、今回改めて訪れてみたのです。……が、たしかに本堂の修理は終わっていましたが、それ以外の建物の修理や境内の整備工事はいまだに続いており、残念ながら全ての重文建造物を見ることはできませんでした。整備が終わったらまた来よう。

 その後は砺波平野を南下して、続100名城である「増山城」へ。まずはスタンプが置いてある砺波市埋蔵文化財センターに立ち寄ったのですが、ここの係員さんがとても良い人で、いろいろ教えてもらったり、パンフレットを頂いたりしました。前日に訪れた福井城が冷たい印象だっただけに、温かみのあるおもてなしが対照的でお城の散策も気分良くできました。


想像より遺構も素晴らしく、じっくり見て周った「増田城」

 富山県からは、源平合戦で有名な倶利伽羅峠を越えて石川県に入りました。牛の角に松明を括り付けて平家に放つという奇策で源氏が勝利を収めた古戦場です。峠は現在公園になっているのですが、そこで放し飼いにされていた犬に追われて退散。慌てて逃げるその様子は、火牛に追われた平家のようだったことでしょう。

 石川県に入ってからは、まずは国道8号線バイパスの真下にある「加茂遺跡」に立ち寄りました。古代の北陸道とそれに伴う官衙の遺跡ですが、かつての官道が現在の幹線道が重なり合うその姿がなんとも象徴的です。


古代の官道と現在の幹線道が交差する「加茂遺跡」

 他にもいくつかの遺跡を見つつ日本海に沿って南下し、道路がが混みそうな金沢市街地を迂回して西金沢に出ました。この辺りにも文化財が数多く、それらをひとつひとつ見て周った感じです。中でも縄文時代後期から晩期の「御経塚遺跡」にはちょっとした博物館が併設されており、重要文化財に指定されている出土品を無料で見ることができます。


重文の出土品が並び、見応えがある「御経塚遺跡」


こちらは野々市の中心部に位置する「喜多家住宅」

 喜多家住宅は主屋と土蔵が重要文化財に指定されているのですが、この旅行の最中に文化審議会の答申があり、主屋の裏手に建っている酒造関係の建物の追加指定が決まりました。物凄くタイムリーだったので立ち寄ってみたのですが、建物の内部を見学するには電話で係の人を呼び出さねばならないとのことで、時間がなかったこともあり今回はパス。次の目的地である続100名城の「鳥越城」へと向かいました。


織田信長に激しく抵抗した一向一揆の軍事拠点「鳥越城」

 一揆というと庶民の反乱というイメージが強いですが、鳥越城は立派な石垣の虎口を備えた、どこに出しても恥ずかしくない山城です。戦争のプロである武将が一向一揆を率いていたことが良く分かりますね。なんでも本願寺が派遣した武将なのだとか。

 その後は一気に石川県を縦断して福井県に入りました。その北端にあたる吉崎町には、本願寺第8世法主の蓮如が北陸の布教拠点として築いた「吉崎御坊跡」が存在します。戦国時代に廃坊となり現在は石碑や蓮如が腰掛けたという石などが残るのみですが、かつては城郭のようなたたずまいの大寺院だったことでしょう。


「吉崎御坊跡」の本堂跡にポツンと立つ石碑

 途中で現存12天守のひとつである丸岡城に立ち寄りつつ(平日なのに物凄く人が多かったので早々に辞去した)、続100名城に選ばれている「福井城」へ。ここは本丸内に県庁と県警本部が鎮座しているとのことで、遺構の残りはあまり良くないだろうと思っていたのですが、意外にも見どころが多くて良い誤算でした。天守台には福井という地名の由来となった井戸「福の井」があったりもします。


御廊下橋や山里口御門が復元されている「福井城」

 福井からは東へ移動してやはり続100名城の「越前大野城」へ。ここはまぁ、よくある感じの平山城ではあるのですが、訪れる人が多く、地域のシンボル的な存在として親しまれているんだろうなと思いました。盆地を一望できる天守からの眺めもなかなか良いです。ただ、正午に爆音のサイレンが鳴り響いたのにはビックリしましたが。


天守台の石垣がなかなか迫力がある「越前大野城」

 越前大野の後は、国道476号線と県道203号線を走り、予約していたキャンプ場のある敦賀市を目指しました。その途中の池田町には国指定名勝の「梅田氏庭園」が存在します。名前からしてプライベートな雰囲気がプンプンしていたので拝観できるとは思っておらず、実際、個人宅の前に説明板が立っているだけだったのですが……なんとたまたま家主さんがおり、「興味あるならちょと見ていきませんか」とお声掛け頂きました。


普段は拝観できない、超レアな「梅田氏庭園」

 なんでも家主さんは普段東京に住んでおられるとのことで、庭園の公開要望はあってもなかなか応えられていないとのこと。たまたま翌日が即位礼正殿の日の特別公開とのことで、その準備として草刈りをしていた時に立ち寄ったのでした。

 家主さんに招かれるまま庭園に入ってみてビックリ。地方の個人宅とは思えないような、実に洗練された池泉回遊式庭園だったのです。美しく苔むしており、まるで京都の西芳寺のよう。話に聞くと、梅田氏の祖先は平氏の落人とのことで、庭園に京都趣味が反映されているとのこと。貴重な庭園を拝観することができて、家主さんには本当に感謝感激です。

 敦賀でも文化財をザックリ見て周りました。北陸への入口である敦賀に鎮座する気比神社は、北陸道総鎮守として古くより信仰を集めてきました。その大鳥居は正保2年(1645年)の建造で、重要文化財に指定されています。また松尾芭蕉も訪れ句に詠んだことから、その境内は『おくのほそ道の風景地』の一部として国の名勝にも指定されています。


重文の大鳥居が聳え、国指定の名勝でもある「気比神宮」


日本三大松原のひとつに数えられる「気比松原」も名勝指定だ

 敦賀からは少し西へと進み、続100名城の「佐柿国吉城」へ行きました。山の麓に城主が住む居館があり、山頂には戦時の際に籠城する詰丸を備えた、典型的な中世山城です。織田信長による朝倉討伐の際にも拠点として使用されたのだとか。


山頂からの眺めが素晴らしい「佐柿国吉城」

 続いては、福井県と滋賀県の境に位置する「玄蕃尾城」。本能寺の変で信長亡き後、信長の後継者を決める清須会議にて羽柴秀吉と対立した柴田勝家が国境の防衛拠点として築き、賤ケ岳の戦いで勝家の本陣が置かれた山城で、こちらも続100名城に選ばれています。賤ケ岳の戦いに敗れた勝家は北ノ庄城(現在の福井城)へ敗退した後に切腹。秀吉の天下が始まりました。

 県境ということでかなり山深い場所にあり、登城路も細い林道を上り詰めたその先から始まります。私はカブなのでまだマシでしたが、公共交通機関で城巡りをしている人には物凄く不便な立地でしょうね。


山頂に土塁や堀が状態良く残る「玄蕃尾城」

 さらに滋賀県を南下し、同じく続100名城の「鎌刃城」へ。中山道の番場宿沿いという交通の要衝にして、北近江と南近江、そして美濃との国境に立地する重要な山城です。事前情報によるとヒルが多いとのことで、足首の露出をなくして挑んだのですが、幸いにも遭遇することはありませんでした。ただ、この日は三つ目の山城だったので、城に辿り着いた頃はかなりへとへとになっていました。


「鎌刃城」は尾根沿いに曲輪が連なり、虎口には石垣も見られる

 最後は岐阜県にある三つの続100名城を巡りました。そのうち「郡上八幡城」は以前の旅行で訪れたことがあるので、天守だけさらっと見て早々に出発。信長の小姓であった森蘭丸で有名な森氏の居城である「美濃金山城」、そして険しい岩山に築かれた特異な城「苗木城」を周ってフィニッシュです。


「郡上八幡城」の天守は昭和8年に築かれた最古の木造復元だ


発掘調査や石垣の復元工事が行われていた「美濃金山城」


天守を始め、建物の多くが懸造で築かれていた「苗木城」

 とまぁ、そんな感じで無事帰宅しました。上越や高岡の辺りはかなり丁寧に文化財を周れていたのですが、最後の辺りは駆け足で続100名城だけを巡った感じになってしまいましたね。もう少しゆっくり見て周っても良かったかなぁと反省です。

 次の長期旅行は暖かくなってから(ゴールデンウィーク後でしょうか)ですが、その前に冬と春の18切符期間がやってきますので、JRでどこかに行くことでしょう。

posted by きむら at 17:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2019年11月16日

【文化審議会答申】史跡等の指定等について


 2019年11月15日(金)に開催された文化審議会で「史跡等の指定等について」の答申がありました。内容は以下の通りです。

《特別史跡》
・埼玉古墳群【埼玉県行田市】

《史跡》
・小山崎遺跡【山形県飽海郡遊佐町】
・磯浜古墳群【茨城県茨城郡大洗町】
・上野国多胡郡正倉跡【群馬県高崎市】
・神明貝塚【埼玉県春日部市】
・午王山遺跡【埼玉県和光市】
・光明山古墳【静岡県浜松市】
・永原御殿跡及び伊庭御殿跡【滋賀県野洲市・東近江市】
・安宅氏城館跡【和歌山県西牟婁郡白浜町】
・大元古墳【島根県益田市】
・讃岐国府跡【香川県坂出市】
・引田城跡【香川県東かがわ市】
・阿恵官衙遺跡【福岡県糟屋郡粕屋町】
・杵築城跡【大分県杵築市】
・鹿児島島津家墓所【鹿児島県鹿児島市・指宿市・垂水市・姶良市・薩摩郡さつま町】
・白保竿根田原洞窟遺跡【沖縄県石垣市】

《名勝》
・成田氏庭園【青森県弘前市】
・對馬氏庭園【青森県弘前市】
・須藤氏庭園(青松園)【青森県弘前市】
・哲学堂公園【東京都中野区】

《史跡の追加指定及び名称変更》

・大野原古墳群【香川県観音寺市】
 椀貸塚古墳 平塚古墳 角塚古墳 岩倉塚古墳(岩倉塚古墳を加える)
・長崎台場跡【長崎県長崎市】
 魚見岳台場跡 四郎ヶ島台場跡 女神台場跡(女神台場跡を加える)

《名勝の追加指定及び名称変更》
・多賀大社庭園【滋賀県犬上郡多賀町】
・英彦山庭園【福岡県田川郡添田町】
 旧座主御本坊庭園 旧座主御下屋庭園 旧政所坊庭園 旧亀石坊庭園 旧泉蔵坊庭園 旧顕揚坊庭園 英彦山神宮旅殿庭園

《登録記念物(遺跡関係)》
・二ヶ領用水【神奈川県川崎市】

《登録記念物(名勝地関係)》
・染谷氏庭園【千葉県柏市】
・魚津浦の蜃気楼(御旅屋跡)【富山県魚津市】
・長峯氏庭園(旧河原氏庭園)【長野県長野市】
・横山氏庭園【三重県三重郡菰野町】

 5世紀末から7世紀初頭にかけての古墳群「埼玉(さきたま)古墳」が特別史跡に格上げです。関東、いや東日本を代表する規模の古墳群であり、辛亥年の紀年名が刻まれた金錯銘鉄剣(古代日本史を研究する上で欠かせない超一級品の史料です)をはじめ出土品が国宝に指定されているなど、特別史跡の風格は十分。また埼玉県という県名は、この古墳群を中心とする埼玉郡が由来でもあります。


巨大な前方後円墳や円墳が集まる埼玉古墳群

 琵琶湖の東岸、朝鮮人街道沿いに位置する「永原御殿跡及び伊庭御殿跡」は、江戸時代初期に徳川家康・秀忠・家光が上洛する際に利用した宿泊施設と休憩施設の跡です。将軍の上洛の実態を示す遺跡としてなかなかユニークですね。そのうち伊庭御殿跡は「伊庭内湖の文化的景観」として重要文化的景観に選定されている範囲内にあり、その取材で立ち寄っています。


伊庭御殿跡では石垣や湧き水の跡などが確認できました

 名勝では弘前市にある三つの個人宅の庭園。いずれもリンゴ栽培で富を蓄えた豪農の庭で、現在も人が住んでおられるようなので一般見学はできないのかな? 「對馬氏庭園」に至ってはまだ正確な位置が特定できていません(これから頑張って調べます)。東京の哲学堂公園は明治時代に開設され、大正、昭和に拡張された公園です。近頃は近代の都市公園の名勝指定が増えてきてますね。

 今回、残念だったのは重要文化的景観の選定がなかったこと。そろそろ「勝沼のブドウ畑とワイナリー群」が来ると思っていたのですが……来年に期待です。あと、遍路道の史跡指定もなかったですね。こちらも毎回楽しみにしていたので残念です。これで今年の文化審議会答申は終わり、次は2月の「重要有形民俗文化財」、そして3月の「国宝・重要文化財(美術工芸品)」と続きます。楽しみですね。

posted by きむら at 19:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文化財

2019年11月04日

秋の北陸カブ旅行(前半)


 9月の北海道&東北旅行に続き、10月9日から24日にかけて北陸旅行に行ってきました。秋のカブ旅行第二弾、そのご報告です。

 メインの目的は北陸の続100名城をかっさらうことだったので、なにはともあれ新潟県の上越へと抜けなければなりません。そこまでは色々なルートが考えられるのですが、まだスタンプを貰っていない続100名城の「諏訪高島城」を経由していこうかなと、とりあえず長野県の諏訪湖を目指したのでした。


高島城は以前に来たことがあるけど、天守に上ったのは初めて

 ちなみに諏訪からは国道152号線が南アルプスに沿って南北に伸びています。その途中には二箇所の未開通区間があり、2014年にはそのうち南側の「青崩峠」を歩いてデイリーポータルZの記事にしました。→「国道152号線の未開通区間を歩いた

 もうひとつの「地蔵峠」にも行きたいなとずっと思っており、せっかく諏訪を経由するのだからと、丸一日かけて地蔵峠まで寄り道してきました。


山道に国道の標識があって驚いた

 この「国道152号線のもうひとつの未開通区間」につきましては、デイリーポータルZに記事を書かせて頂くことになっていますので、その掲載をお待ちください(早く原稿書かないと!)。

 さて、なんとか地蔵峠の取材を終えて諏訪にまで戻ってきたものの、例の台風19号がぐんぐん近付いてきていました。出発する日までは新潟は「くもり時々雨」みたいな感じだったので、北陸まで抜けてしまえば影響は少ないと考えていたのですが、いつの間にか新潟もまた「暴風を伴う雨」に変わっており、いやぁ、見込みが甘かったと言わざるを得ません。というワケで、急遽一時帰還。自宅で台風をやり過ごしてから、仕切り直して再出発しました。

 高島城と国道152号線をクリアした今、諏訪を経由する必要はなくなったので、今度は八王子に出てから八高線沿いに北上。埼玉県比企郡に残る中世城郭を周りました。


関東の中世山城では珍しく石垣が見られる「小倉城」


台風の後ということで、「菅谷館」の堀には水が溜まっていた


コンパクトながら、とても複雑に入り組んだ縄張の「杉山城」

 このうち菅谷館と杉山城が続100名城なのですが、菅谷館のスタンプ設置場所である博物館が臨時休館で閉まっていました。まぁ、大型台風の翌日なので当然といえば当然なのですが、後日スタンプを貰いに再訪することに。ちなみに杉山城のスタンプは嵐山町役場にあり、台風翌日でも開いており問題なく押すことができました。さすがはパブリックなお役所ですな。

 群馬県に入ってからは西へと向かい、碓氷峠を越えて長野県に入りました。その手前、妙義山麓に鎮座する「妙義神社」にも寄ったのですが、この社殿が想像していたよりずっと良いもので参拝した甲斐がありました。


久能山東照宮を彷彿とさせる、きらびやかな権現造の社殿だ

 また長野県の軽井沢では明治の西洋式ホテル「旧三笠ホテル」を拝観し、これまた素晴らしく上質な建築で驚きました。昔から避暑地として賑わってきた軽井沢ならではの文化財だといえるでしょう。


明治の西洋式ホテルとして現存唯一とのこと

 既に10月ということもあって標高の高い長野県は肌寒くなってきており、サクっと通過して上越に出ることにしました。道が混みそうな長野市街地を迂回して山へと入り、戸隠高原では戸隠神社の奥社に参拝しました。


奥社までの参道には杉の巨木がズラリ

 重伝建に選定されている戸隠の宝光社と中社は取材で訪れたことがあるのですが、その時は奥社までは行けなかったので今回改めて訪れた感じです。駐車場から奥社まで片道30分と結構距離があるので、意外と時間が掛かります。まぁ、その道のりも見どころが多くて楽しかったのですが。

 戸隠からは信濃町へと下り、そして関川を越えて新潟県へ――と、県境を越えたと同時に雨がパラパラと。まるでスイッチを切り替えたかのように天気が変わったので、今しがた地域が変わったのだと身をもって実感できました。ホント、北陸は雨が多いですよね。


雨が降る中、関山神社の「旧関山宝蔵院庭園」を散策

 関山神社は妙高山を御神体とする神社で、明治の神仏分離令までは宝蔵院という別当寺が存在していました。この庭園はその寺院の庭園で、妙高山を借景とする滝石組が組まれています。雨降りなので妙高山を望むことはできませんでしたが。残念。

 上越では丸一日使って文化財巡りをしました。続100名城に選ばれている「鮫ヶ尾城」にも登ったのですが、登城路の途中には弥生時代後期の集落遺跡である「斐太遺跡」が広がっていて、一粒で二度おいしく楽しめました。


戦火に備えて山に築かれた集落跡の「斐太遺跡」

 この地域の人々は弥生時代中期まで平地に暮らしていたのですが(吹上遺跡)、クニとクニとの争いが激しくなったことで避難し、山に集落が築かれた(斐太遺跡)と考えられています。戦争が終結した弥生時代終末期には再び平地へと戻り(釜蓋遺跡)、古墳時代を迎えました。この三つの遺跡を合わせることで時代ごとの集落の変遷がよく分かることから、三箇所をまとめて「斐太遺跡群」として国の史跡に指定されています。


周囲には「観音平・天神堂古墳群」など古墳も多い

 さて、「鮫ヶ尾城」に話を戻しましょう。山を登っていくとやがて尾根を断ち切る堀切が見られるようになり、いくつかの曲輪を越えて鮫ヶ尾城の山頂に到着。ここは上杉謙信の跡継ぎを巡り勃発した「御館の乱」において上杉景虎が立てこもり自刃した中世山城で、その際に炎上したことから米蔵跡には現在も炭化した米が残っているのだとか。私にはちょっと、分かりませんでしたが。


鮫ヶ尾城は山頂からの眺めがすこぶる良かった

 上越でのシメは高田市街地の中心に聳える「高田城」。徳川家康の六男であった松平忠輝の居城として築かれた近世平城で、ここも続100名城に選ばれています。本丸の北側三分の二くらいが学校の敷地で立ち入ることができませんが、西側の濠はなかなか壮大で夕日に映えます。


市民の憩いの場という感じの高田城

 上越からは日本海沿いを南下して富山県を目指しました。その途中の能生(のう)という町では本殿が重要文化財の白山神社に立ち寄ったのですが、本殿の前に聳える巨大な茅葺屋根の拝殿に圧倒されました。


最初はこれが本殿かと思うくらいに立派な拝殿でした

 ちなみに肝心の本殿は修理中のようで、足場に囲まれてほとんど見ることができませんでした。まぁ、この拝殿を見ることができたから良いや。

 さらに南下し、ヒスイの町として知られる糸魚川では二つの縄文集落に立ち寄りました。ヒスイや石斧を加工ししていた工房もあり、それらの流通拠点であったと考えられています。


小高い丘の上に集落が広がる「長者ヶ原遺跡」

 糸魚川までくれば富山県までもう少しですが、その県境地帯は北アルプスがそのまま海へ突き出たような地形。極めて急な断崖絶壁が続いており、古くより「親不知(おやしらず)」と呼ばれ、交通の難所として知られてきました。


岩山を削って細い道路が通されている

 明治時代に道路が築かれる前は、わずかな海岸線を歩いて通行していたとのこと。かの松尾芭蕉もここを通り「北国一の難所」と記したことから『おくのほそ道の風景地』の一部として国の名勝に指定されています。

 現在の国道8号線は岬を貫通するトンネルや洞門が通されていますが、スピードの出ないカブ(原付)で走行する身としては、追いかけてくる車やトラックが恐ろしい、今もなお北国一の難所です。

 命からがら富山県に入ってからは、点在する史跡や重要文化財を巡りつつ、ゆるゆると富山市に向かって進んでいきました。


巨大な竪穴式住居が特徴的な縄文遺跡「不動堂遺跡」


北前船で大いに栄えた岩瀬集落の「旧森家住宅」

 岩瀬から富山市中心部に向かう途中には、富岩運河水閘施設の「中島閘門宅」があります。閘門は水位に差のある運河で船を通すためのいわば水力エレベータ。訪れたタイミングが良く、閘門が実際に稼働する様子を目にすることができました。


「中島閘門」の水を抜き、下流へ出ていく間際の遊覧船

 係員さんに聞いたところ、閘門の稼働は一時間に一回程度のようで、結構な頻度で驚きました。ちゃんと動態保存され、活用されていることに感動を覚えた次第です。

 そんなこんなで続100名城の「富山城」に到着。ここは完全に市街地に埋もれてしまっており、ごく一部の石積や水堀、門が残るのみ。残念ながら全体的にあまり良い印象がなく、さらっと見てキャンプ場に向かいました。


たぶん、もう二度と訪れることはないだろう「富山城」


キャンプ場に向かう途中に見た、「旧伏木港クレーン」が素晴らしかった

 というワケで、今回は10月の北陸旅行で見てきたモノのうち前半部分のご紹介でした。続きの後半は来週くらいに更新する予定です。どうぞよろしくお願いします。

posted by きむら at 16:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行