2019年04月14日

茨城県の笠間城&土浦城を散策してきました


 春の18切符旅行の締めくくりとして、4月5日に茨城県の笠間市に行ってきました。目当ては続100名城の笠間城です。

 JR常磐線と水戸線を乗り継ぎ、9時過ぎに笠間駅に到着。てくてく歩いて町の中心部まで行き、まずは笠間稲荷神社に参拝しました。


日本三大稲荷のひとつである笠間稲荷神社


その本殿は幕末の文久元年(1861年)に築かれたもので重要文化財


北関東に多い、装飾著しい近世社寺建築です

 四方を山々に囲まれた盆地に位置する笠間の歴史は深く、この笠間稲荷神社のみならず他にも重要文化財の建築や仏像があるのですが、それらは町から離れており足がないと厳しそうなので今回はパス。素直に主目的の笠間城に向かいました。

 門前通りの東端にある、明治の三階建て旅館をリノベーションした「かさま歴史交流館井筒屋」に立ち寄って笠間城の縄張図を頂き、下屋敷跡にあたる佐白山麓公園から伸びる登山道を上がります。10分足らずのちょっとしたハイキングで本丸に到着しました。


桜が咲いていたけど、平日ということもあって人っ子一人いなかった

 本丸には八幡台と呼ばれる巨大な土塁や、櫓の基礎などが残っており、遺構の現存度合いはなかなかのもの。というのも、笠間城は山城としては珍しく江戸時代も笠間藩の居城として現役でした。さすがに政庁は山麓にあったようですが、山上の建物も明治維新まで維持されていたのです。

 本丸からさらに石段を上がった山頂には天守曲輪が存在します。慶長3年(1598年)に蒲生氏が笠間城を世城郭へ改築した時に築かれたもので、天守がある山城はそう多くありません。


天守曲輪には4mの石垣が築かれている……が

 東日本の城にしては珍しく結構高い石垣ですが、残念ながら2011年の東日本大震災により一部が崩れてしまい、現在も修復されておらず痛々しい感じです。石段は整えられているので頂上まで登ることはできますが、一部はいまだに立入禁止で本格的な修理が望まれます。


現在、天守跡には佐志能(さしのう)神社が鎮座している


本殿を取り囲む壁は、天守の屋根瓦を積んだものとのこと

 佐志能神社の建物自体も、天守の用材を再利用して建てられたといいます。神社に姿は変わりましたが、天守の部材は今もなお残っているのですね。

 縄張図を見ると、天守曲輪の東麓に「石倉」なる表記があり、気になったので見に行ってみることにしました。石で築かれた倉でもあるのかと思いきや、そこは巨石が露出する採石場でした。


石材がゴロゴロ転がり、楔を打ち込んだ矢穴も見られます

 東日本に石垣を持つ城が少ないのは、良い石材が採れる採石場が少ないという理由があります。笠間城は城内に採石場を抱えていたからこそ、巨大な石垣を築くことができたのですね。なるほどなぁ、と大いに納得。

 さて、行きは後世の登山道を使って本丸に直接出ましたが、帰りは城の正面玄関である大手門から出ることにしました。


大手門跡にも石垣が残っていました

 大手門跡から駐車場となっている的場丸を抜け、車道を歩いて行くと、道端に巨大な大岩が現れました。地図を見ると、どうやら大黒石とのことです。


道路の脇にたたずむ大黒石

 なんでも鎌倉時代のはじめ、佐白山を拠点とする僧兵が、笠間の北に位置する徳蔵寺の僧兵に攻め込まれた際、山上にあった大黒石を転がして撃退したという伝説が残っているようです。

 大黒石の中ほどにはヘソと呼ばれる小穴があり、小石を三回投げて一度でも入れば幸せがあるといいます。試しに投げてみたら、ちょうど三回目で穴に入りました。良いことあるかな。

 大黒石からは、坂尾の集落を通って笠間城の北口にあたる「坂尾の土塁」を目指しました。その途中には坂尾不動尊があり、かつてはここに坂尾門という城門があったそうです。


坂尾不動尊周辺は未舗装路の坂道で、往時の雰囲気が残っています


その先に位置する「坂尾の土塁」

 北の防衛前線である「坂尾の土塁」は左右をずらして築いた「食い違い虎口」となっており、かつては土塁の外側に堀が存在していたとのこと。道路の整備によって東側の土塁が少し削られたそうですが、想像していたよりもずっと状態が良くて驚きました。

 坂尾の土塁からは車道を西へと進み、真浄寺というお寺に向かいました。笠間城の本丸にあった、八幡台櫓が移築されているお寺です。


左が真浄寺の本堂で、右奥が八幡台櫓


いやはや、なかなかに立派な櫓ですな

 明治の廃城令に伴い、明治13年(1880年)に払い下げられたとのことで、現在は「七面堂」という仏堂として使用されています。正面は向拝が付けられているものの、背面から見ると、まごうことなき城郭建築。唯一現存する笠間城の建造物として非常に貴重な存在です。

 とまぁ、山頂から山麓まで笠間城を満喫することができました。かなりの距離を歩いたので結構くたびれましたが、せっかく茨城県にきたので笠間城と同じく続100名城になっている土浦城にも立ち寄りました。


土浦城はさくら祭りの開催中で賑わっていました


本丸入口の櫓門は明暦2年(1656年)のものが現存している

 霞ヶ浦の西端に位置する土浦城は幾重にも水堀を巡らせた平城でしたが、現在はその大部分が市街地となり、本丸と二の丸、御用米蔵の部分のみが公園として整備されています。

 非常にコンパクトな印象ですが、江戸時代の門が現存しており、また東櫓と西櫓が木造で再建されているなど本丸周りが良い感じです。東櫓は内部が公開されており、拝観料は土浦市立博物館と共通で105円とお得感があります。


立派な木材は国産のものを使用しているとのこと


二階からは満開の桜が面前で素晴らしかった

 というワケで、春の18切符をすべて使い切ることができました。次の旅行は5月中旬に沖縄へ行くことが決定しているのですが、最近再びお城熱が加熱してきているので、その前にちょっとだけ城巡りをしようかな。

posted by きむら at 15:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2019年04月07日

18切符で群馬三城攻略


 春の18切符旅行第三弾。4月2日に日帰りで群馬県の続100名城を巡ってきました。

 まずは東吾妻町にある岩櫃(いわびつ)城です。岩櫃山の中腹に位置する中世山城で、JR吾妻線の群馬原町駅から歩いて行ったのですが、その道中からしてとても楽しかったです。


岩櫃城へと向かう、番匠坂の入口


途中から未舗装の山道となり、雰囲気満点

 駅から岩櫃城まで約40分と結構な距離ですが、車で直接乗り付けるのでは味わえない風情ですし、駅から徒歩での登城を強くオススメしたいですね。


途中には水力発電のダムがあった……が、今の季節は水がないようだ

 東の木戸を過ぎた辺りから地形がなだらかになり、この辺りにはかつて城下町が広がっていたようですが、現在はダムが築かれています。岩櫃山も良く見えるようになり、いよいよお城に入るぞという気分が高まります。


右奥が岩櫃山の山頂で、その左手前が岩櫃城の主郭


要害地区に入った途端、横堀や竪堀が出迎えてくれた


程なくして中城に出た。要害地区で一番広い郭のようだ

 戦国時代、岩櫃城は吾妻氏の流れを汲む斎藤氏が吾妻郡を支配する拠点として使用していました。後に真田氏の領土となり、真田氏の本拠地であった信濃国の真田と上野国の沼田を繋ぐ重要拠点として整備されています。


まるで竪堀のようなV字型の山道を登っていくと――


二の丸を経て主郭の本丸に辿り着いた


主郭から伸びる竪堀がとてもダイナミック

 本当は岩櫃城から西の木戸を通って郷原駅へと抜けようと考えていたのですが、主郭で吾妻線の時刻表を確認したところ次の列車を逃すとその次までかなりの時間が空いてしまうことが判明。元来た道をたどって群馬原町に引き返しました。

 お次はJR上越線の後閑駅から徒歩約40分のところにある名胡桃(なぐるみ)城です。左右を断崖絶壁に囲まれた険しい山城ですが、現在は国道17号線が通っているのでなんてことはありません。まったくもって普通の道路なので面白みはありませんが。


尾根に沿って郭が並ぶ連郭式の山城です


コンパクトながら、遺構が良く残っていて往時の姿が想像しやすい


各郭は堀切によって仕切られおり、橋が架けられている

 名胡桃城は沼田城を築いた沼田氏により支城として築かれたとされ、戦国時代には真田氏が北条氏に奪われた沼田城を奪還する為の前線基地として整備しました。


ささ郭にある祠には、六文銭(真田氏の家紋)の形に五円のお供えが


一番先端の物見郭へは道が未整備で行くのがちょっと怖い感じ

 その後、豊臣秀吉の裁定により沼田城は北条氏の領土となりましたが、名胡桃城に関しては真田氏が「先祖の墓地がある」と(おそらく嘘の)主張をし、真田領のままとなります。


国道17号線から一望する沼田(左の木々が茂っている部分が沼田城)

 こんな沼田城の目と鼻の先に真田氏の名胡桃城があるなんて、北条氏にとってさぞ目障りだったに違いありません。事実、秀吉の裁定を不服とした北条氏は名胡桃城を強引に奪取し、この名胡桃城事件をきっかけに豊臣秀吉は小田原征伐へと乗り出し北条氏は滅亡。沼田城は真田氏のものとなり、名胡桃城は廃城となりました。

 こうなることを期待して真田氏は名胡桃城を死守したのか、あるいはこうなること期待して秀吉は真田氏に名胡桃城を安堵したのか、いずれにせよ知略渦巻く感じです。


というワケで、最後は沼田城を見てきました


現在、沼田城は公園になっており、地元の人々で賑わっています

 沼田城は上野国の要衝に位置しており、各勢力によって奪い合いがなされました。最終的に真田氏の領土となりますが、江戸時代中期に真田氏が改易され沼田藩は廃藩となり、沼田城も廃されます。その後に沼田藩は復興したものの、城の本格的な再整備はなされず明治維新を迎えました。なるほど、だから遺構があまり残っていないのですな。


それでも、西櫓台などに石垣が残っていたりする


あとは、河岸段丘の縁に位置する立地が見どころだろうか


それと、沼田城へ続く階段の木造アーケードがエモかった

 とまぁ、何とか一日で群馬県にある三箇所の続100名城を巡ることができました。やや鉄道の時間に追われたこともあって、各城ごとにもう少し時間を掛けたかったという感じもしますが、それでも良い城巡りができたと思います。

posted by きむら at 14:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2019年03月18日

18切符で三重&滋賀の一泊二日旅行


 春の青春18切符旅行第二弾として、3月12・13日の一泊二日で三重県と滋賀県に行ってきました。主目的は2017年に国宝指定された津市の「専修寺(せんじゅじ)」と、2018年に重要文化的景観に選定された「伊庭(いば)内湖の農村景観」です。

 まだ日も昇らない早朝に出発して電車を幾重にも乗り継ぐこと約7時間、昼過ぎにJR紀勢線の一身田(いっしんでん)駅に到着しました。歴史ある町家が並ぶ寺内町を進んでいくと、すぐに巨大な唐門が見えてきました。


専修寺の唐門。奥には二重門の山門が構えられている

 江戸時代後期の唐門は一般的な寺院の本堂にあたる如来堂の前に構えられており、江戸時代中中期の山門は宗祖親鸞および歴代上人の画像を祀る御影堂の前に構えられており、いずれも重要文化財です。


広々とした境内に聳える如来堂(左)と御影堂(右)

 専修寺は浄土真宗高田派の本山。庶民を中心に広まった真宗ではより多くの参拝者を収容するべく仏堂が巨大化する傾向にあるのですが、いはやは、これは凄い! 門も堂宇も京都の本願寺に引けを取らない規模です。近年まで重要文化財止まりだったのが不思議な程の壮大さ。

 延享元年(1744年)建立の如来堂は大陸由来の禅宗様でどっしりと力強く、寛文六年(1666年)建立の御影堂は日本古来の和様で落ち着いた気品ある雰囲気で、その対比も素晴らしいですね。両堂は「通天橋(つうてんきょう)」と呼ばれる渡り廊下で接続されており、これは寛政12年(1800年)の建立で重要文化財。

 専修寺の境内には他にも数多くの歴史的建造物があり、計11棟が重要文化財に指定されています。境内東端に構えられている太鼓門もまたそのひとつ。文久元年(1861年)に整備されたもので、東門としての役目も担っています。とてもユニークなシルエットで引き付けられました。


まるで塔層型の天守のような三重の櫓が特徴的な太鼓櫓

 また境内西側の奥まったところには親鸞の歯骨5粒が納められた「御廟」があり、その前には安政5年(1858年)の「御廟拝堂」と「御廟唐門及び透塀」が建てられており独特の雰囲気を醸しています。これらもやはり重要文化財。


陵墓らしくひっそりしっとりとした佇まいの「御廟拝堂」

 とまぁ、専修寺の境内を一通り周り終えて拝観を終えた後は、再び紀勢線に乗り込んで「津駅」まで行きました。続100名城に選ばれている「津城」に寄る為です。津駅からだとかなりの距離があって結構歩きました。

 津市は今でこそ日本一短いひと文字の地名ですが、かつては安濃津(あのつ)と呼ばれる湊町として賑わっていました。戦国時代に織田信長の弟である織田信包が安濃津の地に本格的な城を築き、江戸時代に入ると築城の名手として名高い藤堂高虎が津城を近代城郭として大々的に改修。以降、津藩は明治維新まで藤堂氏が治めていました。


津城の本丸を取り囲む濠と石垣

 現在、津城は本丸の部分のみが「お城公園」として整備されており(本丸以外は埋め立てられて市街地化されており、城跡として見られる部分はコンパクト)、日本庭園が整備されています。その入口には藩校であった「有造館」の正門である「入徳門」が移築されています。


津城に関する建造物では唯一現存する「入徳門」

 藤堂高虎の城といえば高石垣と、石垣の周囲をめぐる犬走。津城でも健在で、しかも石垣の上に登ることも可能です。でも、かなりの高さがある上に、手すり等がないのでちと怖い。


怖くて高石垣の縁に立つことはできませんでした

 津からはJR関西本線と草津線を経由して琵琶湖沿岸へと向かい、南彦根へのビジネスホテルにチェックインして一日目は終わり。

 二日目はまず続100名城の八幡山城がある近江八幡へ行こうと考えていたのですが……なんと車両トラブルで京都から米原にかけての電車が始発から止まってるとのこと。程なくして運行は再開されたのですが、出鼻をくじかれた上に天気もあまりよろしくなかったので、近江八幡は諦めて主目的の伊庭集落を目指しました。

 南彦根から伊庭集落の最寄り駅である能登川駅まではわずか3駅なのですが、電車が止まっていた影響で遅延が凄くてかなり遅く到着しました。やはり近江八幡はやめておいて正解……というか、いずれにせよ行けなかった感じです。


葦が生い茂る伊庭内湖に辿り着いたのは9時過ぎ

 伊庭集落は琵琶湖の内湖のひとつである伊庭内湖の沿岸に存在する集落です。集落内には石積の水路が幾重にも張り巡らされており、かつては舟で行き来していたとのこと。水路へ降りる階段や船溜を持つ家もあります。


水路にはかつて使われていた田舟が展示されている

 現在は水路の幅が狭めれたり、橋が架けられたりしていて、舟が通ることはできませんが、それでも昔から水と共にあった伊庭集落の雰囲気はひしひしと伝わってきます。私が集落の写真を撮っていると、家からバケツを持ったおばあちゃんがひょいと出てきて水路の水を汲んでいく姿も見られ、今もなお水路が活用されていることが分かります。


水路に下りる石積の階段。年季入っている


水路の水を敷地内に取り入れる施設を持つ家も

 不思議なのは、水路のみならず各家の敷地内からも水がちょろちょろと出ていること。といっても生活廃水ではなく、地中に打ち込まれたパイプから水があふれている家もありました。地下水なのでしょうか。


庭先のパイプから水が湧き出る不思議な光景


妙楽寺の境内には四ヶ寺が同居する

 伊庭集落の中心部には妙楽寺というお寺があるのですが、その境内には四つの独立したお寺が同居しており、なんとも独特な景観を作り出しています。大寺院の子院とかならよくありますが、集落内にある規模のお寺でこのように同一の境内に寺院がいくつも密集しているのは見たことがありませんでした。

 また伊庭集落の南には伊庭山が聳えています。伊庭集落内の水路を流れる水の源であり、またその山頂には繖峰三神社が鎮座しています。


集落の入口に鎮座する大濱神社から見る伊庭山

 毎年5月4日にはこの繖峰三神社から神輿を引き下ろす「伊庭の坂下し祭」が行われています。せっかくなので繖峰三神社まで上ってみようと思ったのですが……。


その参道がもの凄く急で、諦めました

 繖峰三神社への参道……というか登山道は、非常に急かつ水で濡れていて滑りやすく、なおかつ岩が脆くて足場が不安定なのです。ここを行くには相応の装備が必要だと考え断念しました。「伊庭の坂下し祭」は近江の奇祭のひとつに数えられているということですが、なるほど、こんな危険な坂道を転がるように下りるとなると、そりゃ奇祭といわれるのも納得ですな。

 満身創痍で麓に戻ってきた時には正午過ぎ。できれば米原の東の山にある続100名城の鎌刃城にも寄りたかったのですが、駅からかなりの距離がある上に電車の遅延もあったので、潔く帰ることにしました。まぁ、今回の旅行の主目的二箇所は達成したのでヨシとしましょう。

 18切符は残り二日分。さてはて、次はどこへ行くとしますかな。

posted by きむら at 19:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行